歴史は語る、時代は語る・エンジョイ!小説

真田昌幸を火坂雅志先生「真田三代」でアツく語ってみる

 

前回、真田幸隆について書いてみました。
真田の領土を復活させ、後の真田昌幸・信之・幸村の活躍の礎を築いた父 幸隆。

 

真田昌幸のデビュー戦/川中島の合戦

今回は、その幸隆の子 三男の真田昌幸について書いてみようと思います。

 

真田の血と
武田信玄の軍略を受け継いだ真田昌幸。

 

では、
おのおの抜かりなく

 

父 幸隆の命令により、武田家の人質として真田を離れた源五郎こと後の昌幸ですが、
武田信玄に才能を見出され、奥近習衆として信玄の側で仕えることになります。

 

奥近習衆とは、
信玄が、若い有能な人材を将来の武田家の幹部に育てるために、選出して教育していく制度です。昌幸はその一人に選ばれるんですね。
武田信玄とともに、様々な戦場に行き、その場で信玄に戦略とは?など指導を受けます。
まさに実践型英才教育。

 

15歳で初陣を飾るのですが、その初陣が世に有名な

 

川中島の合戦

 

です。
何度となく行われた川中島の戦いですが、この昌幸の初陣は、武田軍が裏をかかれ、軍師 山本勘助も戦死した戦いです。

 

武田軍は、山本勘助の進言を元に、
妻女山に布陣した上杉軍を、軍を二つにわけ、一軍を夜明けとともに妻女山へ攻め入り、
それに慌てた上杉軍が妻女山を下って来たところを、もう一軍が迎え撃ち、挟み討ちにする作戦です。

 

戦力は、
上杉軍 1万3000に対して、
武田軍 2万(1万2000で妻女山を急襲。そして、残り8000で迎え討つ)

 

そして、作戦が実行されます。
うまく妻女山へ攻め込んだ高坂昌信、馬場信春などの名将率いる武田軍、これで勝った!と
上杉本陣に行くんですが、既にもぬけの殻です。

 

上杉軍いないんですね
上杉謙信、天才なんですね。
軍神なので、軍略も天才なんです。

 

あの、山本勘助の策、見抜くんです。
この頃には、武田軍本陣 8000に急襲するためにひた奔り奔り向かっているんですね。

 

つまりは、
上杉軍 1万3000 対 武田軍 2万 だったのが、この瞬間、武田は8000で迎えうたなければなりません。
しかも、まだ気づいていませんから、本陣も陣形が整っていません。

 

先に、上杉謙信に出し抜かれたことに気づいた、高坂昌信、馬場信春率いる部隊は青ざめますよね。

 

「誰もいねーよ」
「どゆこと?」
「撤退した?」
「いやいや、撤退するなら途中で遭遇してるっしょ」
「ということは???」
「本陣に向かってすすんでるっしょ!まずいっしょ!」

 

ということで慌てて、妻女山を降って、上杉軍の後を追います。
その頃には、武田軍本陣、ボッコボコです。
山本勘助の策が見破られて、急襲された形になったので、陣形も間に合いません。
しかも、奔りに奔ってきた上杉軍、勢いがあります。

 

これで、山本勘助は進撃を少しでも食い止めるために突撃し、戦死。
そして、昌幸はというと、信玄の側近なので、信玄と共に本陣にいます。
この頃、武田信玄は、よく影武者を使っていたので、本陣の信玄は影武者です。

 

有名な軍配に刀傷が入るほど、軍神 上杉謙信に攻め込まれますが、後続隊がなんとか間に合い、九死に一生を得ます。
昌幸の初陣は激闘というか、命からがら。

 

武藤昌幸

その後、武田家は、
上杉攻めを方向転換し、かつての勢いがなくなった今川家の領地占領を戦略に。
ここで、今川家の嫁を持つ嫡男 義信の反感もあり、謀反の罪で幽閉、その後自害。
後継は勝頼に移行します。

 

当時は、昌幸、武藤家を受け継ぎ

 

武藤昌幸となっています。

 

今川攻めを、織田・徳川連合と共同して攻めることにしていた武田ですが、この打ち合わせの徳川への使者に昌幸がなっていました。
まさか、この出会いが、後の関ヶ原の戦いまで影響するとは。

 

武田信玄の死

当時の昌幸の立場は、強豪、大勢力、武田家の使者ですから、
織田・徳川よりも立場は上。

 

後に、徳川家康は、武田軍が他の戦いで今川攻めができないことをいいことに、今川領を勝手にバッタバッタと占領していくのですが、これを知った信玄、

 

「昌幸、ちょっと徳川に、小僧あんま調子に乗るなと言ってこい」

 

と釘をさす役目で、徳川家康にこれを伝えます。
だいぶ脅しも含めて。

 

徳川家康的には、昌幸は、大勢力を背景に威圧してくる気に入らない存在。
このことがキッカケで武田を敵にまわす徳川ですが、外交を抜かりなく行い、

 

北条
上杉
徳川

 

の武田包囲網を敷き対抗します。
これには、さすがの武田信玄も苦戦します。
ただ、さすがは政略抜群の信玄。

 

時間をかけて、北条と和睦し、
上杉は一向宗も一揆を煽り、動けなくし、
そして、残り徳川を攻撃

 

この武田軍の進行に、徳川家一の猛将 本多忠勝が向かい撃ちますが、まぁ、当時の武田騎馬隊最強です。
あの本多忠勝ですら蹴散らされ、徳川領をどんどん進撃。

 

向かうとこと敵なし。

 

この徳川の惨劇に、織田軍もヤバいと思ったのか、援軍を送ります。
徳川がヤラれれば次は織田ですからね。

 

でも、その徳川・織田連合軍も、敗退。
ついに浜松城まで攻め込まれ、徳川家康、滅亡の危機です。
そして、ここで歴史が動きます。

 

武田信玄の死

 

です。
これが無ければ、歴史にもしかしてはないですが、徳川家康、織田信長は存在せず、全く違った歴史になっていたかと思うと、考え深いものがあります。

 

武田勝頼の時代

そして、武田家の衰退、滅亡に繋がっていくんですね。
そして、織田軍もこの時、朝倉、浅井などの包囲網にあっていましたが、これをなんとか凌ぎきり、勝利!

 

武田信玄の居なくなった武田攻めを模索します。
この頃の武藤昌幸(後の真田昌幸)は、戦場でバシバシ、権謀剣術を駆使して戦っていたかというと、そうではなくて、主に信玄に命じられ外交の役目を果たしていたみたいです。

 

先ほどの、徳川への恫喝の使者だったり、
織田信長の治世、戦略を調べるために現地に行ったり、

 

 

真田家は、幸隆は隠居して、信綱の代に。
弟 昌輝と共に真田家を盛り上げていきます。
そして、武田家も信玄から

 

武田勝頼

 

の時代に。
勝頼的には、譜代の家臣から信頼を勝ち取り、そして力を示すためにも、戦い続けました。結果、高天神城などを奪取して、力を見せ示すんですが、、、

 

内政がボロボロです。
でも、勝頼、戦い続けます。

 

なぜなら、信玄を凌がないといけない!
武田の家臣は、百戦錬磨の強者揃いですからね。
家臣からしてみれば、

 

「勝頼、強いの?」
「俺の方がやれんじゃね?」

 

みたいな侮りもあり、勝頼もひしひしと感じています。
そして、

 

長篠の戦い

徳川領である三河長篠城を攻めます。

 

力攻めが大好きな勝頼。
この要害な城を攻めますが中々進展がありません。

 

ここで、武藤昌幸、信玄からも受け継いできた戦略を勝頼に進言しますが、取り入れてもらえずっっっw
この間に、織田軍、武田騎馬隊の弱点を探ります。
過去の戦い方などを参考に、一つの弱点を発見。それは、

 

一度、攻めたら退かない

 

ことです。プライドの高い武田軍は、

 

必ず勝つ
ウチらは強い

 

という自信の元、退くことをしません。退くは恥です。
これを元に、戦いの天才、既成概念壊すの天才、
織田信長は、

 

馬防柵を設けた三千挺

 

での戦い方を考えます。
そして、設楽原に布陣。武田勝頼を誘い出そうとします。
譜代の家臣たちは戦をよく知っていますから、馬場信春、内藤昌秀、小山田信茂、山県昌景など、

 

「これはヤバいんじゃない?」
「なんか策略あるっしょ?」
「一旦、退いて様子見た方がよくない?」

 

など、経験ある独特の戦略眼によって、勝頼に意見を述べるんですが、
勝頼からすると、譜代の家臣に言われれば言われるほど意地にっっっw

 

小説では「敵に背中を見せるなど、わが軍法になし!」

 

と言って戦闘に踏み切ります。
世に言う

 

長篠の戦い

 

です。
ほとんどの主要人物、最強武田家臣はここでほとんど戦死。
そして、真田家

 

真田信綱
真田昌輝

 

も戦死。
武田家、死傷者 一万。
大敗です。

 

これをキッカケに武田家は、滅亡への一途を辿ります。

 

武藤昌幸は、なんとか生き残りますが、兄二人を失い、このタイミングで、真田家を受け継ぐことになります。
NHK大河「真田丸」はここから始まりますよね。

 

武田信玄の時代を見て、勝頼の時代、そして、武田家衰退の中を生き抜いていく真田昌幸。
真田の血 幸隆の教えと、信玄の戦略を深く受け継いだ、真田昌幸。

ここから権謀剣術を駆使して、歴史の表舞台にと上がっていきます。
次回、昌幸・信之・幸村について書いみようと思います。

では、
おのおの抜かりなく